仕事やモノづくりへのこだわりと同じく、食にも独自のこだわりを持つ職人をフィーチャーする「職人めし」。第5回目の今回は、愛知県岡崎市で江戸時代から続く手彫りの手法で印鑑をつくり続ける神尾印房2代目の神尾尚宏さんに、手彫りにこだわる意味とその細やかな仕事を支える食のこだわりについて、お話を伺いました。
子ども時代の「好き」からはじまった「ものづくり」への道
近年、印鑑業界では大量生産された安価な既製品が多く流通していることに加えて、業務のデジタル化の一環として「脱ハンコ」という風潮も見受けられ、印鑑業界が立たされている状況は厳しいように感じます。神尾さんはどのようにして、この業界に生きることを選び、この彫師の仕事を続けられてきたのでしょうか。
神尾さん 小学校のとき、版画や造形がものすごく好きな先生から影響を受けて、ものづくりが楽しいと思うようになりました。もちろん父親も家でいつも印鑑を彫っていたので、その様子を見て育ちました。思えば小さいころから、ものづくりに興味をもつきっかけがたくさんありましたね。
長男であるため、いつか家を継ぐのだろうとは思っていたと言う神尾さん。しかし神尾さんが大学生だった20年ほど前には、すでに安価な印鑑が出回っており、パソコンが普及し始めていました。「将来印鑑はなくなってしまうのではないか」という不安と、「ものづくりが好き」という気持ちで揺れ動いていたそうです。
神尾さん 就職活動を前にしたとき、母親の死も含めて人生を見つめなおす機会がありました。自分のやりたいことが何か考えたとき、大学の専攻だった経営工学よりも「ものづくり」が浮かんだんです。やるなら20代から飛び込まなければならないと覚悟を決め、大学卒業後に職業訓練校や父親の元で修業を始めました。
そうして印鑑業界に入ったものの、やっと売り上げがたちはじめたのは神尾さんが35歳になった頃でした。仕事を始めて10年ほどは、アルバイトもされていたそうです。安価な大量生産の印鑑が流通していることが、そのような厳しい状況を作り出してしまった部分もあるのではないでしょうか。「脱ハンコ」が叫ばれる現在の状況を神尾さんはどう感じていらっしゃるのかを率直にぶつけてみたところ、意外な反応が返ってきました。
「想い」を刻む彫師の仕事
神尾さん デジタル化には反対していません。デジタル化によってなくなるのは、安価で均一に量産された印鑑だと思っているんです。一方、本当に良い印鑑や想いのこもった印鑑は、「改刻」されて一家に代々受け継がれていきます。ひとつひとつ丁寧に想いを込める手彫りの印鑑は、むしろどんどん依頼をいただいている状況なんです。
「改刻」とは、古くなった印鑑の表面を削り、もう一度お名前を彫りなおすこと。印鑑の材質が良ければ何回も彫り直し、新たな命を吹き込むことができます。近年おじいちゃんやおばあちゃんがお孫さん用に改刻してほしいという依頼が増えてきているそうです。真心を込めてつくられる「本物」の印鑑を作り続けてきた神尾さんだからこそ、その価値を理解する方からのお声がけがあるようにも思えてなりません。なぜ、ここまで、手彫りにこだわるようになられたのでしょうか。
神尾さん はじめはひたすら作るのが面白く、自分にしか作れないものを作りたいという想いが強かっただけなんです。けれど22、23歳のとき、渡す人の性格などを聞いてそれを字に表現できたらいいなと思うようになりました。その頃から「想いを形にする」というのを一番のテーマにしています。だから文字に温もりや個性がこもる「すべて手彫り」にこだわっているんです。
印鑑のデザインは職人に任されることが多いため、どんな想いをどう込めるかも職人さん次第なんだそう。神尾さんにとっての手彫りは、込める想いの重さにこたえる手段なのかもしれません。また、漢字という文字の性質も「想いを形にする」ための重要な要素だと言います。漢字はアルファベットやひらがなと違い、1文字だけで読み方も分かるし意味も伝わる、とても想いの込めやすい文字なんだそう。
神尾さんが彫っているのは印鑑という「モノ」ですが、そこに刻まれるのは、生まれた時にもらった大切なお名前。そのお名前には、目には見えない多くの人の「想い」が込められています。両親やおじいちゃん、おばあちゃんから託されたであろう未来や希望を表現すべく、心を込めて、ひとつひとつ丁寧に彫っているそうです。
2020年の3月には人気テレビ番組にゲスト出演するなどメディアに取り上げられたこともあり、現在では3か月先まで仕事が埋まっているという神尾さん。1日に彫ることができるのは通常の印鑑で2、3本ということなので、依頼の多さがうかがえます。「脱ハンコ」という言葉で象徴されるように、「モノ」としての役割でしかない印鑑は淘汰されるかもしれません。しかし、神尾さんが丁寧に彫り込んでいるのは「モノ」ではなく「想い」。だからこそ、逆に今の時代に求められているのではないでしょうか。
集中力の秘密は食事時間と好物の豆料理
印章を彫ることにかける神尾さんの強い想いをうかがっていると、そのこだわりは日常生活などにも影響しているのではないかと聞いてみました。
神尾さん 1日のスケジュール、特に食事の時間に影響していますね。7時過ぎに起きて、9時過ぎに仕事をし始めます。お昼ご飯は必ず12時ぐらいです。食べ終わったら仕事をして18時から18時半に晩ご飯。そのあとお風呂に入って、19時半から22時まで仕事をするという流れがルーティンです。
神尾さんにとって、ご飯を食べてコーヒーを飲む流れが仕事を始めるスイッチになっているそうです。時には極限まで集中し、無意識に彫り進めていることもあるんだとか。その集中力をコンスタントに発揮するためにも、食事時間を決めていらっしゃるそうです。
ただ、食事内容には特に気をつけていないとおっしゃる神尾さん。しかし、お話を伺っているうちに「豆」を好んで召し上がっていることがわかってきました。ピーナッツや豆ごはん、小豆、枝豆、味噌や豆腐もお好きとのこと。豆を食べると、エネルギーが湧く気がするそうです。今回は、そんな神尾さんが奥様によく作ってもらうという「豆ごはん」のレシピをご紹介いたします。
「職人めし」レシピ
エネルギーの源 豆ごはん
材料
材料名 | 分量 | 備考 |
---|---|---|
米 | 2合 | |
むき枝豆 | 約100g | さや付きの場合約200g |
しょうが | 一片 | |
酒 | 大さじ1 | |
白だし | 大さじ2 | |
塩 | ひとつまみ |
作り方
手順 | 調理内容 |
---|---|
1 | お米は洗って、約1時間ザルにあげておく |
2 | しょうがは千切りにし、さっと水にさらす |
3 | 炊飯器にお米と調味料を加え、目盛りまで水を足す |
4 | むき枝豆としょうがを加え、炊く |
5 | 炊き上がったら全体を軽く混ぜ合わせて完成 |
今回の職人
職人データファイル:005
神尾尚宏さん
神尾印房
愛知県岡崎市/彫師
江戸から続く技法にこだわり、時代を超えて求められる「想いを刻む」彫師。
次回予告
日本の伝統文化に携わる職人に、その仕事に対する想いとこだわりのレシピをインタビューするメディア「職人めし」。次回は岡崎市内で唯一生麩づくりに励む職人、峯田和幸さん。
ぜひ次回の記事もお楽しみに!